「幸せも不幸も全て自分が作り出している。」
次のような場面に出会ったことはないだろうか。
友達と悪ふざけをしていて、先生や近所のおばさんなどに注意された時、ある友達は焦って謝り、ある友達は逆ギレしてふてくされる。同じ悪ふざけをし同じように注意を受けたにも関わらず、相手から投げかけられた言葉への受け取り方も感情も態度も全く人によって違う。
当然、注意した先生や近所のおばさんは、焦って謝った子には「わかればいいんだ。今度から気をつけなさい。」と言うかもしれない。対して逆ギレしてふてくされた子には「なんだその態度は。自分のしたことがわからないのか。」と更に怒られるかもしれない。
次に、このような場面を思い浮かべてもらいたい。
自分が余命3ヶ月と宣告されたとする。皆一様にショックであろう。その受容の速さもまた個人差はある。問題は、受容後の行動だ。同じ余命3ヶ月をどう過ごすか。さあ、あなたならどうする?
この問いに対しての答えは千差万別であろう。似通った答えもあるとは思う。ここでuyuが注目するのは、なぜ同じ質問であるのに一人一人答えが違うのかということだ。学校の試験では、ほとんどの教科試験の答えは皆同じであるのに対して、上記のような気持ちや見解に対する質問は、10人10通りの答えになる。
そんなの当たり前でしょ。みんな違う人間なんだから。
そう。答えは明白である。みんな違う人間だから感じ方も違う。ではなぜ、一人一人感じ方は違うのか。
・人によって感じ方が違うのはなぜか?
生を受けてから今日まで、各々が各々の経験をしている。それこそ最近では「国ガチャ」「親ガチャ」なる言葉もあるように、生まれ落ちた国も性別も親もそれぞれだ。たとえ双子だとしても、経験は個々によって違う。国の文化や親の育て方、または持って生まれた性格などの様々な要因が複合され、成長していく過程で個人のアイデンティティーが確立されていき、その中でその人独自の思考の癖が出来上がっていく。
その思考の癖を世間では、ポジティブとネガティブ、楽観的と悲観的、外交的と内向的、積極的と消極的、根明と根暗、陽キャと隠キャなどという対照的な言葉でカテゴリー分けされやすい。本来、人の性格を2種類に分けること自体ナンセンスではあるが、ある意味わかりやすいため世の中に浸透しているのだろう。
そこで怖いのは、世の中に浸透しているカテゴリー分けが自分の中にも浸透し、どちらが善でどちらが悪かのような捉え方をしてしまっているということだ。
ただの思考の「癖」
されど思考の「癖」
その思考の癖こそが、その人の世界観を作り出している。
・個々の世界観は、その人が獲得した思考の癖が影響している。
では、幸せを感じにくい思考の癖を持っている人はどうしたらいいのか。
まず、カテゴリー分けされた対照的な思考の癖に善悪をつけることを止めてみることから始めよう。
善悪をつけているのも自分の頭の中だということを自覚すると受容しやすいだろう。
どうしても生育環境的に小さい頃から善悪をきちんと教育された人にとって難儀な課題かとは思うが、ゼロか100で考えてしまう人には1〜99という数字もあるし、白か黒で答えを出したい人にはグレーもあるんだよと言う視点を持ってもらいたい。ポジティブが善でネガティブが悪なのか。そんなことはないはずなのである。
uyuは美術館へよく足を運ぶのだが、著名な芸術家の多くは生前名を馳せずに死後その価値を認められた人が多い。文学作家なども同様で、作品執筆当時は変わり者扱いされていたが、死後かなりの年月を経て評価されたりしている。
また、浮世絵の時代の日本美人は一重まぶたが美しいとされたが、現代の日本ではこぞって二重まぶたを手に入れたがっている。
何が言いたいのかと言うと、時代によって価値も変わり常識も変わる。世の中のそんな曖昧な一般常識にあなたの人生を翻弄されるのは、限りあるあなたの時間がもったいない。
かく言うuyuも、学生時代は隠キャにも関わらず陽キャを装っていた。カースト上位グループに所属し続けるため、リア充よろしく過ごしていたのだ。今思うと柄にもないことをしたと悔やんでいるが、その経験があったからこそ、コミュ障でも隠キャでもありのままの自分で過ごすことこそが幸せなのだと今は思える。
ネガティブな人は、慎重にことを運べる。
悲観的な人は、相手の痛みに寄り添える。
内向的な人は、コツコツ作業が得意で、
消極的な人は、控えめである。
根暗な人は、物静かで、
隠キャな人は、自分独自の楽しみ方を知っている。
思考の癖に善悪などない。感じているのは誰でもない自分の頭の中であることを、まず理解しよう。
・自分の思考の癖を理解し受容する。
自分の思考の癖を理解できれば、気分が落ち込んでしまった時に対処ができる。今まで他人の言葉で辛い思いをした時、「自分は何をしてもダメなんだ。」「あの人は自分のことが嫌いに違いない。」などと自分を必要以上に卑下していたかもしれない。だがここで「まてまて。今自分は、相手のキツい言葉を受けたショックからこんな風に考えてしまっている。これは自分の頭の中で抱いている幻想でしかないんだ。」と理解できる。そしてそれに気づければ「今自分は、相手の言葉で傷つき、悲しいという思いを抱いた。」と客観的に自分の感情を言語化することができ、必要以上にネガティブな幻想を抱かずに済むのだ。
抱いてしまった感情はしょうがない。そう感じるのも本来の自分なのであるから。しかし、そこから更に自分自身を追い込む必要はないのである。自分を追い込まないための方法として、思考の癖をまず自分が理解してあげて、今感じた気持ちを言語化することをお勧めする。
幸せも不幸も全て自分の頭の中が作り出している。
それならば少しでも幸せを作っていこうではないか。
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